ミニ講座 ワーシップとは?

「ワーシップの祝福(4)」

5.ダビデの捧げたハラルの礼拝賛美

今回はダビデとミカルの2人の人物を通して、礼拝と賛美を捧げる心について考えてみたいと思います。

■旧約聖書に出てくる賛美の表現

旧約聖書の中に出てくる賛美を表す言葉(ヘブル語)として、次の7つの言葉が挙げられます。

yadah(ヤーダー)、towdah(トーダー)、zamar(ザマー)、shabach(シャバク)、barak(バラク)、tehillah(テヒラー)、halal(ハラル)


この中の「halal(ハラル)」という言葉は、旧約聖書の中で117回も使われています。旧約の賛美には「ハラル」が満ちているのです。

■ハラルの意味

「ハレルヤ」という言葉は、「halal(ハラル)」から成り立って出来ています。その意味は、「興奮して元気よく叫び、誇り、ほめちぎる」、「気が狂ったように絶叫する」、「喜び祝う」です。

新改訳聖書の詩篇104:35の「ハレルヤ」という言葉の脚注(新改訳聖書)には、「主(ヤハ)をほめたたえよ」とあります。「ハレルヤ」=「ハラル」「ヤハウェ」、つまり、「ハレルヤ」という言葉を使う賛美は本来、「神様を力の限り叫んでほめたたえる」という大変力強い賛美であった訳です。

■ダビデの捧げたのはハラルの賛美

Uサムエル6章14節〜22節のダビデ王の賛美には、「ハラル」という言葉が使われていますので、ここを読むと、「halal(ハラル)」という言葉が使われていますので、ここを読むと、「halal(ハラル)」がどれ位力強い賛美であったのかが、よく分かります。

ダビデは神の箱を取り戻したお祝いに、その箱の前で「力の限り」、「はねたり踊ったり」しました。亜麻布のエポデを着ていたのですが、それを脱ぎ捨ててしまって、裸になって踊り狂ったのです。このお祝いとは無関係な傍観者から見たら、まるきり馬鹿げた様子に見えたでしょう。事実、妻のミカルはダビデの様子を見て、「さげすんだ」とあります。

ダビデは王であり、勇士です。そうした立場に全くふさわしくない振る舞いを、何故ダビデは、人前で行なったのでしょうか。

■ダビデの捧げた礼拝・賛美の動機

この連載の2回目で少し触れましたように、当時、この神の箱は、ご臨在(栄光と祝福)そのものでした。一時ペリシテ人に奪われてしまいましたが、長い年月を経て、ついにダビデの町に神の箱を運び込むことができました。神様のご臨在を節に求めたダビデがこれを喜ばないはずがありません。

この日は、彼にとって最大の喜びのひだったのです。喜びが心の底からほとばしり出て、あのような賛美の形となって現れた訳です。ダビデにとって、その賛美の時は、王としての自分の尊厳を保つよりも、一人の礼拝者として、神様の前に出ていた時でした。神様と心を通わせる喜びは何にも勝ると知っていましたので、他人の目は気にならなかったのです。

■ハラルの賛美を理解できなかったミカル

「ダビデはミカルに言った。『あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに敬われたいのだ。』」(Uサムエル6:21〜22 抜粋)

ミカルはサウル王の娘、ダビデ王の妻というプライドにこだわっていました。神の箱の本当の意味も、ダビデの賛美の意味も、理解出来ていなかったのでしょう。それで、ダビデの踊る姿を「みっともない」と蔑み、しかも、祝福しようとしてやって来たダビデに、冷たい批判の言葉を投げつけてしまったのです。

サウルは本来、神様から選び出されてイスラエルの初代王となった人物です。そのサウルがミカルに神様を礼拝する喜びを教えられなかったこと、そしてミカルも父親やダビデの歴史を見て来て、礼拝の本質を学べなかったのは、とても残念なことです。

結果として、神様はダビデの賛美とその心を受入れて下さり、一方のミカルは神様からの祝福を受け損なってしまったのでした。

ダビデの礼拝態度から教えられること

ダビデは、理屈抜きに神様を心から喜んで待ち望んでいました。それは帰宅したお父さんを大喜びで駆け寄って迎える小さな子供の姿を思わせます。

私達の賛美を「ハラル」のように劇的に変える必要はないでしょう。けれども、私達の礼拝や賛美の心の動機を、ダビデに見習うことは、とても大切な事だと思います。神様は私達の礼拝の心(詩51:17、T歴28:9)をご覧になっておられるからです。

(記:ゴスペル音楽院講師 尾之上 幸子)

…次回は:『 ワーシップの祝福 (5)

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